【資料】 金沢嘉市年譜雨宮衿子/上地ちづ子編 1908(明治41)年10月2日、愛知県宝飯郡蒲郡町平田村(現蒲郡市平田町)に生まれる。父梅吉、母だい、二男四女の長男。父は農業、平田村の副区長 および区長を歴任する。1915(大正4)年 7歳東部小学校入学。二年生になって赤松かず先生の担任となり赤松先生に憧れて教師への夢を育む。その頃、蒲郡劇場で巌谷小波の口演童話をきいて印象を残す。少年時代はわんぱくであったらしい。1921(大正10)年 13歳蒲郡農学校入学。農業を継がず教師をめざすことにする。卒業期の校内弁論大会で、愛知県人気質を酷評した校長に弁論で抗議する。1927(昭和2)年 19歳青山師範学校二部入学。落合聰三郎らと交遊はじまる。1928(昭和3)年 20歳青山師範学校卒業。短期兵役をつとめて、9月より東京府西多摩郡多西村(現秋川市)多西小学校に赴任。帝劇家庭娯楽会で久留島武彦の口演童話をきいて感銘を受ける。1931(昭和6)年 23歳北豊島郡(現豊島区)西巣鴨第三小学校に転任。回字会ほかで口演童話を学ぶ。1932(昭和7)年 24歳学校劇研究会に参加。1934(昭和9)年 26歳樫葉勇主宰ひばりの会(童話教育会)の同人となる。この頃、よく酒を飲み、盲腸炎を酒で散らそうとして腹膜炎をおこし、九死に一生を得た後は暴飲を慎む。この入院中に母が木下イトを知り結婚相手にすすめる。1935(昭和10)年 27歳南山小学校の養護教諭であった木下イトと結婚。代官山の同潤会アパートに住む。翌年、長男淳誕生。1938(昭和13)年 30歳教室童話研究会の結成に参加。この頃、東京放送童話研究会にも参加して口演童話活動を盛んに行う。1940(昭和15)年 32歳芝区南桜小学校に転任する。1941(昭和16)年 33歳長女衿子誕生。日本少国民文化協会が結成され、童話部会幹事となる。翌年、二女三枝子誕生。1943(昭和18)年 35歳芝区麻布中央国民学校に転任。1944(昭和19)年 36歳芝区愛高国民学校に転任。高等科ばかりの生徒たちと軍靴作りをする。1945(昭和20)年 31歳敗戦にショックを受ける。弟清(大正8年生)に農業をすすめられるが、教師をつづけることにする。1946(昭和21)年 38歳東京児童文化連盟を結成。救援米懇請運動を展開する。1947(昭和22)年 39歳港区桜川小学校に転任。文部省児童文化委員となる。1948(昭和23)年 40歳日本民主主義教育協会常任幹事となる。1950(昭和25)年 42歳歴史教育実践をはじめる。翌年に歴史教育者協議会に参加。また社会科教科書(教育出版)執筆陣に加わる。1952(昭和27)年 44歳NHK学校放送「このごろのできごと」に毎週出演。教育科学研究会全国委員になる。1955(昭和30)年 41歳世田谷区玉川小学校に教頭として転任。日本子どもを守る会理事となる。1958(昭和33)年 50歳世田谷区祖師谷小学校校長になるとともに、勤評問題に直面する。翌年に杉並区浜田山に転居。1960(昭和35)年 52歳東京地裁における勤評裁判に証言。1962(昭和37)年 54歳世田谷区三宿小学校校長となり、学テに苦悩する。1966(昭和41)年 58歳世田谷区代沢小学校校長となる。「ヨク学ビ、ヨク遊べ」を実践。1969(昭和44)年 61歳前年末につづいて教科書検定訴訟に証言する。停年退職の前後には、ジャーナリズム話題の人となる。モービル児童文化賞は受賞したが、叙勲は辞退。1970(昭和45)年 62歳「児童教育研究家」として講演活動を盛んにする。日教組委嘱の教育制度検討委員会に参加。1972(昭和47)年 64歳TBSテレビ「母と子の教育相談」に丸木政臣らとレギュラー出演。1973(昭和48)年 65歳日本青少年文化センターの久留島武彦文化賞選考委員となる。1974(昭和49)年 66歳明星学園の理事に就任。1976(昭和51)年 68歳内申書裁判に証言。翌年に妻と二女とともにヨーロッパ旅行に出かける。1978(昭和53)年 70歳子どもの文化研究所所長を引き受けて子どもたちのために「平和」「自然」「人権」を主張。翌年にカナダ旅行。1980(昭和55)年 72歳乾孝、永畑道子らと ともに日教組の教育相談室を担当する。1981(昭和56)年 73歳障害児を普通学級へ・全国連絡会結成の世話人となる。1984(昭和59)年 76歳「金沢嘉市の口演童話をきく会」がひらかれ、これを契機に子どもたちへの語りの必要性を提唱するようになる。1986(昭和61)年 78歳4月、椿山荘で金婚式を祝う。前年に東京女子医大病院に検査入院して肺繊維症と診断され、3月、5月に短期再入院。7月より清瀬市の国立療養所東京病院に入院。10月10日 死去。墓所は杉並区久我山の専光寺。 |